聞き手・文責:関拓弥
コンクリートの広場と蛇口ひとつ
─中山英之さんは、そこにある風景や目に見える世界を読み替える建築家だと思います。その読み替えはテクノロジーとは異なる種類の発明のようなもので、中山さんはそれらを決してアイデアや言葉で終わらせず、今まで建築として定着させてこられました。そんな中山さんに「あそび」を社会へ実装する際のヒントを伺いたいと思います。
中山:ぼくの親の世代は高度経済成長期を生きてきました。日本の経済をどんどん成長させていかなければいけなかったため、どの産業も雇用を増やし、働き手を一部の工業エリアに集めて、供給を加速していきました。同時に、最小限の時間とコストで、日本全国に道路や団地をつくっていきました。そんなわけで、いわゆる団塊ジュニアのぼくが住んでいた家は、大量供給時代の家だったのです。そのうち、全国で同じ箱の中で同じような暮らしをすることで、個性のない右へ倣えの社会になってしまうことへの危惧が芽生えたのでしょう。ぼくらが建築を勉強し始めた頃には、大量供給の時代から多様性の時代に移り変わっていました。当時の建築の世界も、同じ箱をつくり、その中でLDKと決まった機能を配することを前提とした住環境づくりへの批判が、さまざまな建築家たちから発信されるようになった時代でした。いわゆるnLDK批判です。
─中山青年はnLDK批判を素直に受け入れられましたか?
中山:ぼくも、そうした批評精神に大きな影響を受けた当時の学生のひとりでした。一方で、自分が幼少期に育った家はまさに大量供給の時代にできた工業都市の団地だったのです。金属を製錬する会社の社宅が団地という形で何棟も並んでいて、ぼくら家族もそこに住んでいました。青森県八戸市にあった団地での暮らしは、ぼくにとって今でもとても素晴らしい思い出です。同じ社会階級にあるような人たちが一緒にいたことも理由のひとつかもしれませんが、団地全体がひとつの家族みたいでした。建物のプラン(平面計画)がどの棟も同じため、隣の棟の同位置にある部屋に住んでいるお父さんが、夜に酔っぱらって「ただいま」と帰ってくることもある(笑)。そんな事件が頻繁に起こっても、皆で大笑いしておしまい、というような。また、友達の家に遊びに行くと、部屋の間取りが同じなのにちょっとした家族構成や習慣の違いで使われ方や調度がどこも違っていて、それがとてもおもしろかった。同じ間取りだからこそ違いがわかったのでしょうね。
そんな団地の思い出の中でも特に印象に残っているものが、冬のあそびばです。団地が建ち並ぶエリアにはよく公園や広場のような共用部がありますよね。ぼくらが住んでいた団地にも、何もなく只々四角い、地面がコンクリートで舗装された広場がありました。そこに立水栓のような蛇口がひとつだけあり、冬になると親たちは当番制で水張りしてくれました。
親が勤めていた金属製錬の会社は三交代制で、親が昼間に寝ていて夜働きにいく家もあれば、昼間働いて夜に帰ってくる家もありました。その三交代の合間に、親たちが代わる代わる四角い広場に水張りしてくれて、1カ月ぐらい繰り返して水面を少しずつ育てると、なんとそのコンクリートの四角い広場がスケートリンクになるのです。冬になると子どもたちはずっとそのリンクでぐるぐる滑って遊んでいます。そんな冬を毎年過ごすおかげで、団地の子どもたちは皆、スケートを滑れるようになりました。
─「あそびば」ができたわけですね。
中山:東京に引っ越して建築を勉強し始めた頃、たまたまロジェ=カイヨワの『遊びと人間』(1958年)を読みました。そこではあそびが4つに分類されていました。「模擬(ミミクリ)」「競争(アゴン)」「偶然(アレア)」「眩暈(イリンクス)」です。団地のスケートリンクに照らし合わせてみましょう。まず小さい子がちょっと年上の子が滑っている姿を見て、見よう見まねで滑ろうとします(=模擬)。そこにスケートの先生がいるわけでもないのに、皆どんどん滑れるようになる。すると、友達とどっちが速く滑れるかを、時間も忘れて競争し続けるなんてことが自然と起こります(=競争)。次に「偶然」は何か。団地というコミュニティでは、どこからともなくおさがりのスケート靴が回ってきます。子どもの足もどんどん大きくなるから、ぼくが履いていた靴を次の年には別の子が履いているような循環がある。つまり、毎年どの靴が自分の元に来るかわからないし選べません(=偶然)。
─今で言うガチャですね。
中山:種類も、歯が長いレース用の靴を履いている年もあれば、女性用の白いフィギュアスケート靴を履いている年もありました。その女性用の白い靴がカッコ悪くて嫌だったけれど、使っているうちにスピードスケート用の靴とは違って、くるくると小回りが利くことに気づきます。前まではギュンっと曲がれなかったのに、急に曲がれるようになると、それはそれでおもしろいぞと(=眩暈)。競争していた時とはまた違うあそびが新しく生まれるわけです。つまり、あの広場のスケートにはあそびの全ての要素が内包されていました。
そんなあそびが誰かの意図ではなく自然発生的に生まれた背景には、団地というコミュニティがあったからだと思います。何にもないコンクリートの広場と蛇口ひとつでも、コミュニティさえあれば、あそびの全要素が勝手に現れる。そこでの体験の記憶はきっと消えることはないでしょう。
だから、建築教育や建築雑誌で批判対象となっていた団地が自分を育んでくれたという矛盾が、ぼくの中にずっとあります。それを矛盾と感じるまで少し時間は掛かったけれど、大量供給時代の副産物と自分たちをどのように繋ぎ合わせればいいのかを、もう一度考えていくきっかけもそこにあるような気がします。人口が減りながらも供給過多を止めず、地球も温暖化し続けて同じ広場に水を張っても氷にならないような現在だからこそ、その副産物への落とし前というか、それはぼくらの役目のように思えます。
「私」を積み重ねる
─その矛盾に気づいたのはいつ頃ですか?
中山:社会人になってからです。大学で勉強を始めた頃はモードとしての建築表現に夢中になって、自らの実体験を顧みることなど正直頭にありませんでした。でも、自分の事務所を始めるくらいの頃から、自分が話している言葉が自分のものではないように感じて、徐々に違和感が大きくなっていったのかもしれません。
─伊東豊雄さんの設計事務所で働いていた頃はどうでしたか?
中山:そう感じるようになったきっかけはあったかもしれませんね。伊東事務所というのは少し特殊で、驚くほど民主的な場所なんです。アイデアを出し合うことに上下関係がなくて、それは所員だけでなくインターンの学生も同じで。模型をつくりにきた学生も図面を描いている所員たちも、それぞれのタスクを分業することを越えて、自由に意見を交わし合うようなムードがありました。今思うと生意気ですが、ぼくも入所してすぐに、少し上の先輩と一緒に海外からインターンで来ていた学生を巻き込んで、事務所に来たばかりのプロジェクトの自分たちの案を勝手につくって提案したり。そんな事務所は他にあまりないと思います。ぼくにとってはとても幸せな環境でした。
そもそも、伊東さん自身がとてもフラットなんです。「ここはもっと柔らかく迎え入れる感じでさ」みたいなふわっとした感想のようなことをよく言うので、入所当初は少なからず驚きました。大学で建築を学んでいた頃は、「私」を主語に自分の設計を説明してはいけないと、半ば決まりごとのように信じていたからです。「社会は」「都市は」「環境は」「歴史は」「構造は」「材料は」といったように、自分の外側にある客観的なファクトをしっかり観察して、そこからの帰結として提案を位置づけていくことが建築家の訓練なのだと。「私は」から案を説明することなど、それこそ「あなたの感想は聞いてない」です(笑)。
ところが、そこから飛び込んだ伊東事務所には、いろいろな「私は」が溢れていた。そこでは、自分たちが仮につくってみたアイデアの中に入ってみる時間が、とても大事にされていました。スケッチや模型、図面を描くとか、そうした設計の過程でつくられるものは、いつもその場にいる皆がその中に入っていくためのものとして開かれていた。つくったのが所員でもインターンの学生でも、仮に伊東さん自身であっても、それはあまり重要なことではなかったんです。そもそも、シミュレーションや3Dプリンターといった、新しいテクノロジーを持ち込むのは新人であることも多かった。それらは結局、事実を客観的に記述するためというよりも、なるべく全員が普通の人間になって自分たちが今考えているものの中に入り、素朴に感想を述べ合うためなんです。その結果、集まるのは大量の主観です。すると不思議なことに、だんだんと自分たちがつくるべき建築が浮かび上がってくる。
─大勢の「私」を積み重ねていくわけですね。
中山:そうなんです。例えば、ひとつの模型に対して皆で主観的な意見をああだこうだと言い合うことで、だんだん「私たち」という小さな疑似社会のようなものがプロジェクトの行く末を照らし出すようになっていく。そんな設計プロセスがぼくはとてもおもしろかったです。学生時代の設計課題は一人でやるものだったし、発表する時には「私はこれが好きで」なんて絶対に言ってはいけなかったから、こんな「私」の在り方があるというのは大きな学びでした。
確かに私たちの生活というのは、そこにある建築への深い理解というより、脚色や知識が先行しない時間の連続ですよね。「朝の光がきれいだなあ」とか、「夜風が気持ちいいなあ」とか、もっと漠然と「なんかこの場所は落ち着くな」とか。伊東事務所では劇場の設計に関わりましたが、「駅から急いで走ってきて、開演ぎりぎりの時間に劇場に駆け込むときの気分」みたいな主観の方が、「劇場とは~である」といった客観的事実と同じか、あるいはそれ以上にその劇場の体験にとって大きなことですよね。建物というのはそういう主観の総体によって体験されるものだから、劇場史的なリサーチや建築史的な表現への探求ばかりでは生き生きとした建築をつくることができないのです。所員たちがそんな専門性の中に閉じた輪の中で真面目に議論しているところへ、ふらっと来て模型を覗いた伊東さんがとても当たり前のことを言って、全員が「たしかに」と我に返るようなことがよくありました(笑)。
─この数年で人類は、コロナ禍や環境問題といった「私」では抱えきれない、否が応でも「私たち」を主語にして取り組まないといけない問題に直面することになりました。一方で、主語を「私たち」にして話すことに対して、正しいとわかっていながらも、その言葉に少しコシがないように感じられることもあります。
中山:正当性を主張するためだけに集められた客観的な言葉で埋め尽くされた社会からは、きっと本質的な「あそび」は生まれてこないですよね。
─だからこそ伊東事務所のように、多様な「私」を積み重ねることで「私たち」をつくり上げていく方法があったことに驚きました。
中山:そうですね。幼少期を過ごした団地やそこでの経験など、建築を勉強する過程では全く顧みていなかったようなことが、実は考えるに値するものだったと目を向けられるようになったことも、ここでの経験が大きかったと思います。それからもちろん、これまでのお話とは少し違った意味で、建築家が「私」を主語に語らなければならない瞬間というのもあるとは思っていますよ。
読み替えていく往生際の悪さ
中山:ぼくが住んでいた団地はもうありません。団地をつくらせていた社会も今後再生産されることはないでしょう。短期的な生産性を最優先し、「皆で同じところに住みなさい。言う通りに転勤しなさい。転勤で集められた人の子どもたちはこの学校に通いなさい」といった仕組みはもはや受け入れられない。でも、そんな団地があった社会で、大人たちが三交代制の合間に全くお金にもならない水を張るだけの作業をしてくれたおかげで、「あそび」が生まれるミラクルが起きました。そんなミラクルがこれからの社会の中のどんな場面で現れるのかを、よく考えてみる必要がありますね。
─コンクリートの四角い広場と蛇口は、漫画『ドラえもん』に出てくる空き地と土管のような、機能として何もないけれど、人間が自分たちで自然と「あそび」をつくり出すような場所に思えます。そんな場所やそれを生み出すトリガーを建築家やデザイナーは計画できると思いますか?
中山:四角い広場に起きたミラクルは、必ずしも団地を設計したデザイナーによって生み出されたものではないけれど、私たちの社会がかつてとった形の副産物に違いありませんよね。つまりそのヒントはきっと、社会やコミュニティにある。だから建築家は、個別のカッコいい住宅や素敵な空間だけでなくその先にある社会を設計することに、自分たちなりの方法でもう一度向き合わなければならない。
もちろん現在の日本は、国家的なプロジェクトとして爆発的に社会を再構築していくというフェーズではありません。あるいはそういった事象がもし起ころうとしているならば、それに対してはむしろ、毅然と対峙していけるかどうかが強く問われる時代だと思います。日本にある大学の建築学科では、都市計画の授業が少なくなってきています。特に70年代の建築家たちによる幾つかの言説に端を発して、建築家には都市を計画することは不可能なのではないかといった議論や気運が建築界には長くありました。都市をつくるのはデザインではなく政治と工学であると、資本の論理に結びつけられた政治と土木的思考が日本列島をどんどんつくり替えていきました。
その副産物をこれからどう引き継ぐのか、あるいは新しい意味を付与するのかは、ぼくらに投げかけられたひとつのテーマです。その時の戦術のひとつが、「こうだよ」と渡されたものをその通りだと思わずに受け止めて、読み替えていくことだと思います。そんな往生際の悪さに、もしかしたら「あそび」を生む何かが内在した社会をもう一度考える時のヒントがあるのかなと。
─例えば、歩行者天国も読み替えの一つですよね。高度経済成長期に自動車優先で整備された都市の交通計画に対して、新しいものをそこにつくるわけでもなく、「車が走るための道を人に開放したらどうか」と読み替えた。その読み替えだけで風景はまるで違って見えます。
中山: そうですね。そこが普段車道の上であることを知っていることも、歩行者天国の楽しさのひとつですよね。本来的にはストリートは市民のものだと思いますが、やっぱり道路の真ん中に寝転ぶって、ちょっと背徳感がある。社会から一義的に意味を強く帯させられた場であるほど、むしろ新鮮な風景に読み替えられる可能性に満ちていると言えるかもしれません。高度経済成長期の爆発的なエネルギーによってつくられた都市や街をそういった可能性が埋蔵された場であると考えてみたら、なんだか可能性を感じませんか? そう考えてみた方が楽しいですよね。
─つまり、上の世代を只々否定しているだけでは前に進めない。
中山:近過去の否定で自分を表現することは、どの時代にあっても若者の特権だと思います。でも、それがいつだって短命だったこともまた、過去が教えてくれました。70年代アメリカのDIY文化と、そのコミュニティとしてのヒッピー文化がそうですよね。資本や政治の原理による人権破壊へのカウンターとしてのそれらは、商業主義と結びつくことで消費されてしまった。一方で、当時編まれた『ホール・アース・カタログ』のような媒体が、今に続くライフ・ハック文化のお手本として今も尚おもしろく読めることもまた、興味深いと思います。
既につくられたモノや考え方に対して、「それは違う。自分たちはこうだ」と否定するのではなく、それらを受け止めつつ別の視点から創造性と結び付けてみる。すると、高度経済成長期のようなでたらめにパワフルな時代があったおかげで、ぼくらは今こんなことができるのだと思えるようになるかもしれない。目の前に批判すべきシステムがあるのなら、その中に一度飛び込んで、自分たちなりの視点や工夫で再編集してみる。そんな読み替えによって既にあるモノや場所を「あそび」や「あそびば」が見出されるような環境にしていくことも、ぼくら建築家やデザイナーの仕事ではないでしょうか。
可視化はコミュニティを動かす
中山:既存の都市を読み替えるといった話題になりましたが、ぼくが大事だなと思うのは実感です。都会の建築デザインというと、給排水管や電気設備などのインフラを綺麗に隠すテクニックのことだったりする。これは、物事の連動をわからないようにするデザインです。逆にサイクロン掃除機のように、ゴミもろとも仕組みを可視化するデザインというのも、いつからかちゃんと受け入れられるようになった。あるいは、自分のベランダもハーブ園化していますが、生ごみコンポストとベランダ菜園といった趣味は、都心でも広がっていますよね。透明な掃除機もコンポストも、物事の因果関係や原理が実感されることって、それ自体がとてもおもしろいんですよね。
例えば、都会の下水システムはパイプスペースや道路の下に隠されています。でも、例えば加古里子やリチャード・スキャリーの絵本に出てくる、街の建物や地中のインフラが可視化された断面イラストは、子どもだけでなく大人も大好きですよね。家の排水口から消えて行った下水が排水管を通り、東京の場合はそこに雨どいを伝った雨水も合流して、下水管を通って処理場に行く。処理された水は都心の川を伝って浄水場や海に注ぎ、また家の蛇口や、あるいは自然という巨大なポンプの力で雨となって戻ってくる。私たちの暮らしを取り巻くそんな仕組みが、隠されずにもっと実感として感じられるデザインというのは、きっとあるんじゃないかなと思います。
─下水処理場がある街の道路だけ、下水道も丸見えになっていて、排水から浄化する変遷を歩きながら見れたら、もはやその地域の観光コンテンツにすらなりそうです。自分たちが使っている水の汚れが徐々に綺麗になっていくワクワク感を体験できる。
中山:それ、いいですね。ぼくは年に1、2回、船をチャーターして神田川、日本橋川、隅田川の三角形を船で1周しています。東京を水面レベルから見上げる「あそび」です。もう15年くらい続けていますが、川沿いの建物のつくりが徐々に変化しています。川側に開口やテラスを開いた建物が増えているんです。インフラ整備が年々進んで、都心の川が綺麗になってきたからでしょう。
ただ、このところまた状況が変わってきている。ゲリラ豪雨の増加です。雨上がりに船に乗ると愕然とします。かつてのような雨の降り方であれば、下水処理場は十分対応できるのですが、昨今のように短時間に集中して降ると、下水道に大量の雨水が合流するので、渋滞が起こってしまいます。そうすると何が起こるかというと、家の排水口へ下水が逆流してしまう。それはできないので、未処理の下水をそのまま川に放流してしまうのです。
そんな日に船に乗ったこともありますが、ここでは言いにくい光景です。ぼくらの生活排水がそのまま川に浮かんでいるのですから。温暖化とヒートアイランド現象によって、都市ではそんなパンク状態が頻発するようになってきてしまいました。では、どうすればいいのか。ぼくが都知事なら「今日はゲリラ豪雨だから、お風呂の栓を抜くのもシャワーを浴びるのも、24時間待ちましょう。そのあいだに処理場がしっかり働くので、晴れたら皆で川で泳ぎましょう」とアナウンスしますね(笑)。まあそれは冗談としても、ゲリラ豪雨でもぼくらはなぜお風呂の栓を抜いてしまうのかを考えると、やはり水にまつわる仕組みを実感していないからです。透明な掃除機がゴミで一杯になってたら、それ以上吸わないってわかりますよね。川と家の連動も、それを皆が実感できるような街であれば、大雨のあと綺麗なままの川を見たら自然と達成感を共有できるだろうし、そこで一緒に泳げたら一体感も生まれる。
─団地のスケートリンクも、水が凍る様が可視化されていたから生まれたのかもしれません。たまたま起きた凍結を見た誰かが、「スケートリンクにできそうだね」と発想したり、実際に滑ってみて、子どもたちの「あそび」をつくれるのではないかと試したのかもしれない。可視化にはそんなコミュニティを動かす働きがあるように思えます。
中山:もうひとつ大事なことは、団地のスケートリンクには、ささやかな水道代以外にほとんどお金がかからないことです。あとは自然が勝手に氷らせてくれるから、大きな投資や計画も不要です。今風に言い換えるなら、タクティカル・アーバニズムそのものですね。そもそも、あのスケートリンクは団地のコミュニティにとっても合理的でした。団地に住む大人たちは仕事や家事でいつも忙しく、あまり子どもと一緒に遊んであげられませんも、お兄ちゃんが弟の面倒をみたり、1年生の面倒は6年生がみて、6年生の面倒は中学生がみるような状況が、どこかへ自由に移動できないスケート靴と四角いリンク、という組み合わせから自然に生じた。子どもたちは同じ場所をぐるぐる回っているだけで大満足で、家に帰れば疲れて寝てくれます(笑)。だから、大人がつくった「子どもたち遊ばせとき自動装置」の罠に、ぼくらはまんまとかかっていたわけです。
そんなことが勝手に起こってしまうことが、社会の良さや醍醐味でもありますよね。使い方や見方を変えるだけでいい。団地という、チャールズ・チャップリンが『モダン・タイムス』(1936年)で批判したような画一的な資本主義的風景の副産物としてスケートリンクがあったのです。
シーザーは現れるか
─中山さんは今、団地のスケートリンクのような「あそび」の実装について、何か構想があったりしますか?
中山:既に完成した「mitosaya薬草園蒸留所」(2018年)とその後のプロジェクトがそうかもしれません。蒸留所にふさわしい土地を探していて出会ったのが、元々県立の薬草園だった場所だったんです。薬草園としてオープンしたのは、バブル真っ最中の1980年代でした。全国に公営のテーマパークが競うようにつくられた時代ですね。その県はなぜだか、郊外のそのまた田舎に世界中の珍しい薬草を集めた薬草園をつくることにしました。そうした公営テーマパークの多くは、今は存在していませんよね。この薬草園も例外ではありませんでした。県から町に運営が押し付けられて、一時期は薬科大学の研修所として利用されていたようですが、それも長くは続きませんでした。困った末に一般公募で事業主を募っていたところを、東京で営んでいた書店を仲間に譲って、ドイツで果物や植物を原料としたお酒づくりの修行中だった江口宏志さんが見つけて、この場所を蒸留所として改修することになったのです。
お酒づくりの工場ですから、当然排水システムを整備する必要があり、多額のインフラ投資が頭痛の種でした。けれども、元々多くの見学客を迎え入れる目的でつくられた施設だったため、立派な浄化槽が完備されていました。これはそのまま転用が可能です。当然、世界中の珍しい薬草が集められているわけですから、レシピ開発のための実験材料も揃っている。そもそもお酒って、絶対の必需品ではないけれど、毎日に楽しみを与えてくれるものですよね。だから「mitosaya」は、元々つくられたものの意味を読み替えて、それを自分たちの「あそびば」にするようなプロジェクトでした。
そんなわけで、ぼくらは設計事務所として参加しましたが、新しいものは正直ほとんどつくっていません。元々あった展示館を工場にコンバージョンする設計は簡単ではありませんでしたが、苦労の多くは法解釈のスキームづくりでした。建築基準法はもちろん、可燃物製造に関する消防法、食品衛生に関する保健所との協議、酒造法に関わる税務署との許認可の折衝などですね。法規制と実空間のふたつの領域に渡って、別用途のためにつくられた場を最小限の手数で読み替えていく。それは、高度経済成長期につくられたシステムとその遺産を、ぼくたちなりの方法で「あそびば」に読み替えていく仕事だった、というふうにも言ってもいいかもしれないです。
江口さんとぼく、サインデザインを担当した山野英之さんはたまたま同い年だったのですが、つい最近蒸留所に集まったときに、江口さんが「老後の家を見つけた」と言いはじめたんです。さっそく一緒に、近所で廃園になった幼稚園を見に行きました。そんなわけで目下、自分たちのための老人ホームを妄想中です(笑)。
─都市の中に「あそびば」をつくることはどうでしょう?
中山:都市のような政治と資本の力が強力な場所で考える「あそびば」となると、もしかしたらシーザー(ユリウス・カエサル)みたいな人が必要かもしれないですね。僕は歴史小説家の塩野七生さんが好きなんですが、『ローマ人の物語』(1992~2006年、新潮社)はご存知ですか。その番外編で塩野さんがローマ社会でモテる男について書かれていて、モテる条件は借金が多いことだっていうんです。
─他者から信用される男ということ?
中山:その通りです。ローマ時代の公共事業というのは、すべて個人プロジェクトだったのだそうです。別の都市に続く道をつくろうとか、この谷に水道橋を渡そうとか、そういう壮大な構想を持った個人が夢を語るところから始まるんですね。たいへん魅力的な語り手が出現すると、そこにスポンサーが集まる。だからローマ時代に皇帝になる男というのは、一人で国家予算規模の借金を負うような人物だった。そうやってつくられたものは、今となってはとっくに元の機能は失われているけれど、それらがないローマなんて考えられない。そういうものを「あそび」と言うのは質問の趣旨とだいぶ違ってしまうかもしれませんが、働きがないけれど大事なものってあるんですよね。
現在の社会では、政治と資本の原理が民主主義的な手続きを経て、土木的な構造の上に都市を形づくってきました。でも、これから夢のあるインフラをつくっていくのは、もしかしたら国家やそれを支える社会システムではなくて、シーザーのような個人かもしれません。
例えば、宇宙エレベーターのようなものがつくられるとします。国旗を積んだロケットで月に行く時代は、もうずいぶん前に終わってしまいました。現在最も多くロケットを宇宙に飛ばしているのは、みんながよく知っているアメリカの個人です。シーザーが特別だったもうひとつに、元老院の嫉妬に対抗するために自分の活躍を自費出版して、民衆を虜にしたことがあります。『ガリア戦記』ですね。現代ならユーチューバーといったところです。では、誰が宇宙エレベーターをつくるのかと言えば、そういう世界を謳歌している今の子どもたちだと思うのです。「宇宙に橋を掛けたいな」みたいな夢を、学校では教わらない知識はインターネットから集め、SNSで仲間に出会い、クラウド・ファンディングで資金を集めて、現実のものに近づけていく。そういうローマ時代のような季節が、もしかしたら久しぶりに訪れようとしているのかもしれない。
建築家はときどき、「私」という一人称で語らなければならない時があるってさきほど話しました。「これが欲しい」「あれがたべたい」「あそこに住みたい」みたいな意味での「私」ではなく、「この川に橋を架けたら、皆が行き来できるんじゃないか」というような夢で皆を魅了する「私が」が、時々「社会が」を飛び越える。それが宇宙エレベーターのような壮大なものでなくても、どこかの小さな空地であっても、今の都市にはそういう夢を語る「私」がとても必要だと思います。
─ひとりの「私」の中にある小さなイマジネーションやアクションに対して、皆で応援したり、協働すれば、それも「私たち」になる。今の都市に新しい「あそび」を実装するとしたら、そんな「私たち」が必要なのかもしれませんね。
中山:気づいたらとっくに、夜中に氷を育ててくれた親たちの年齢を越えてしまいました。子どもたちがそんな夢を描けるような世界を真剣に考えなければならない責任は、本当に重大ですね。ずっとスケートリンクで滑っている側でいたかったですけれどね。