2021年7月6日、都内にて書家・金澤翔子さんによる書道パフォーマンスと母・泰子さんによる講演を開催した。金澤翔子さんは「ダウン症の天才書家」として知られ、東大寺や中尊寺、伊勢神宮といった名だたる寺社仏閣での個展や奉納揮毫を行っており、海外でも個展を開くなど日本を代表する書家の一人だ。2015年には、ニューヨーク国連本部にて開催された「世界ダウン症の日記念会議」でスピーチを披露した経験もあり、世界を舞台に活躍している。
午前と午後の2回に分けて行われた書道パフォーマンスでは、「共に生きる」「飛翔」という2つの言葉を力強い書を披露してくださった金澤翔子さん。揮毫後は、コロナ禍の自粛中にマスターしたというマイケル・ジャクソンのダンスを軽やかに踊り、会場を大いに盛り上げてくださった。
今回は金澤翔子さんの書道パフォーマンスの後に開催された、母・泰子さんによる講演のレポートをお届けする。
ダウン症児の子育ての向き合い方を教えてもらった保育園時代
金澤翔子さんが生まれたのは今から36年前。流産などで中々子どもに恵まれなかった泰子さんが42歳の時に授かった初子だった。しかし、生後52日目にダウン症であることを告知される。知能がなく歩くことすらも難しいかもしれないという宣告に、泰子さんは涙した。今でこそダウン症などの障がいを持つ子どもも暮らしやすい環境が整いつつあるが、当時は障がい児であることに偏見も多かった時代。
しかし、翔子さんと泰子さんは人との出会いに恵まれた。翔子さんが保育園に入園し、園長先生から子育ての思想を授けてもらったのだ。ある冬の日、泰子さんが翔子さんを迎えに保育園へ訪れると、寒空の中翔子さんはぞうきんを持って下駄箱を懸命に拭いていた。泰子さんは思わず「何やってるの!」と叫んでしまったが、園長先生は「人が嫌がることをやる人を嫌いになる人はいないのよ。自由にやらせておきなさい」と諭したのだという。
「園長先生の言葉にカルチャーショックを受けました。普通の感覚で考えると嫌だし辛いことでも、翔子にとっては辛いことじゃない。初めての子育てて何も分かっていない私に、子どもとの向き合い方や子どもの自由の尊重について園長先生は教えてくださりました」
保育園卒業後、翔子さんは近所の公立学校に進学。集団行動が苦手な翔子さんの姿を見て、泰子さんは担任の先生に「迷惑をかけてごめんなさい」と謝ったが、先生は「翔子さんがいるクラスはみんなおだやかで優しくなるんですよ。だから、そのままの翔子さんでいてくれていいんです」と言ってくれた。
「それまで私は、翔子のような子はどれだけ普通の子どもに近づけるかが重要だと考えていました。でも、ありのままでいてもいいと言われて、救われた気持ちになりましたね。ビリでもいい。翔子らしく生きてくれればと考え、ゆっくりと子育てしました。その頃、自宅で書道教室を開くようになったので、翔子の同級生がたくさん家に遊びに来てくれました。友だちと交流を深めて、みんな優しく翔子に接してくれたんです。当時はとても楽しかったのを覚えています」
闇の中でもがき苦しみ身につけた書家としての基盤
しかし、小学4年生に進級する時に転機が訪れた。翔子さんは普通学級に進級できないと宣告されたのである。電車通学が必要な特別支援学校に転校しなければならないと言われたが、それでは翔子さんは仲の良い友だちと離れ離れになってしまう。泰子さんは、半ばボイコット的に学校を休ませることにして、親子で引きこもりのような生活を送るようになった。
「その時、当時10歳の翔子にはじめて般若心経の書を書かせました。翔子には悪いけど、母である私の気持ちが抑えられなかったんですね。字を書くのも難しいのに、翔子は一生懸命取り組んでくれました。うまく書けない翔子を怒ってしまっても、涙を流しながら頑張って書に向き合ってくれたんです。その時の涙が残った般若心経の書は、今でも人気の作品です」
深い闇の中でもがき苦しんだ泰子さんと翔子さんだったが、この時の経験で翔子さんは楷書の基礎を身につけることができたという。
学校を休むようになってから半年後、翔子さんは特別支援学校に通うことになった。泰子さんは大きな不安を抱えていたが、当の翔子さんは喜んで学校に通っていたそうだ。
20歳での個展開催で運命が変わった
翔子さんが18歳の時、また事件が起きた。学校卒業後は作業所に就職することになっていたが、作業所に提出する内申書を担任の先生が誤って泰子さんに渡してしまったのである。そこには「子育てする能力のない、だらしがない保護者」と書かれていた。
「これには理由があったんです。翔子が14歳の時に主人が心臓発作で突然死してしまって、海外で運営していた店舗の処分手配のために私が日本を離れることになりました。主人の死から半年後、翔子を愛してくれていた私の妹も末期がんで亡くなってしまって。どうしようもないので、翔子が“おばあちゃん”と呼んでいたお友達に預けることになったんです。とても大切に面倒を見てくれていたのですが、年も年なので忘れ物が多かったようで…。私も十分に翔子の面倒を見ることができない期間があったので、内申書に辛いことを書かれてしまったのでした」
再度泰子さんは落ち込み、翔子さんの就職も仕切り直しとなってしまった。その時、泰子さんは主人が語っていた言葉を思い出したのである。
「翔子が20歳になったら個展を開いて、ダウン症であることも公表しようと主人が言っていたんです。6年前の言葉を突如思い出して、これは主人の遺言だと考えました。それから2年かけて、翔子は20作品を完成させました」
生涯で一度限りだと思っていた翔子さんの個展だったが、メディアで大きく取り上げられたことをきっかけに、次々と個展開催の声がかかるようになる。今では400回以上の個展を開催する人気書家の一人となった。
純粋な魂で表現する書が人々に与える感動
翔子さんの個展を開催すると、その書を見て涙を流す人が大勢いることに驚いたという泰子さん。どれだけ素晴らしい作品であっても、涙を誘うほど感動を与える書というのは中々ない。泰子さんはその理由について話してくれた。
「翔子の書が感動を与えるのは、翔子の純粋な魂を感じられるからなのではと考えました。翔子は学歴社会に入れませんでした。試験を受けたこともありません。だから、競争心が身につかなかったんです。競争心がないから、人をうらやんだり妬んだりする心が全くないんです。また、翔子の時間感覚は明日のお昼ごはんくらいまでしかありません。未来に対して不安を抱えることがありませんでした。今を100%全力で生きているんです。皆に喜んでもらえたら、それだけでいい。その純粋さ、強さが書に表れているではないでしょうか」