あそびを呼べば、利他もくる。

November 28th, 2024
伊藤 亜紗
美学者
徳本 誠
PLAY DESIGN LAB
利他とあそび。その二つには意外な共通点が多くあります。目的を持たない衝動、「与えすぎてはいけない」というジレンマ、他者と溶け合う状態。

本対談では利他の研究者・伊藤亜紗氏と、あそびの専門家・PLAYDESIGNLABチーフプロデューサーの徳本誠がそれぞれの視点を交わらせ、あそびとからだ、あそびと利他の不思議を探ります。あそびの扉から利他の世界をのぞいてみると、複雑な社会に潜む「だれもが楽しく生きるための仕組み」に気づけるかもしれません。

 

 

体を持つ生きものだから、人は世界とつながる


 

伊藤(以下、I ):人間はなぜ遊ぶのか。私は体を持っているから遊ぶのではないかと考えています。私たちの体は、持ち主の意図しないところでよく世界とたわむれています。例えば何の気なしに小石に触ってみたら、想定外の動きをした。これはなんだろう?とそこで初めて意識にのぼり、もう一度触ってみる。このように頭よりも先をゆく体に連れられて、物質や世界に関わっていくとさまざまな発見に出会います。その発見に導かれ、好奇心が煽られ、あそびは生まれていくのだと思います。考えてみれば、深海の生き物が地上に上がるという進化も、おそらくうっかりした個体がいて、好奇心のまま危険を顧みなかったことが始まりのはずです。最初の個体は死んでしまったかもしれないけれど、そういうチャレンジを繰り返していくうちに生育範囲が広がっていったんですよね。人類が月を目指すのも、それに似た行為かもしれません。月も、行く必要があるから行く訳ではないし。ある種の好奇心と、良い意味での軽率さが推進力になっているというか。人間の本能的な興味は「体を持つ存在」が環境と関わるなかで触発されていくものなのだと思います。

 

徳本(以下、T):頭だけで動くわけではないということですね。

 

I :私の所属する東京工業大学の未来の人類研究センター01では『利他学会議』というトークセッションを定期的に開催しています。基本的にはオンラインでの配信ですが、3回目には研究室に観覧席を20席ほど設け、PLAY DESIGN LABのドーナツ型の遊具も置きました。それをこの研究室まで運ぶのはなかなかの作業でしたね!

 

T: 直径2mの遊具を、9階まで階段で運びました。あれは愉快でしたね。

 

I :みなさんエレベーターに遊具が入らないと気づいた瞬間、何のためらいもなく文化祭モードで持ち上げる体勢になって。ああPLAY DESIGN LABさんは手と体で考える方たちなのだなと感じました。

 

T :その日に講演する予定の先生や研究者など、利他学会議の他のメンバーも加わって。

I:まるでお祭りのようでした。

 

T :それこそ神輿を担ぐような。純粋に頭で考えているだけでは、あのような“お祭り”は生まれなかったでしょう。遊具を9階まで運び終わった後、先生たちと汗を拭きながら「いやあ楽しかったねえ」と言い合って。目的を持たずに一緒にやるってまさに利他ですよね。体があるからこそ生まれるものがあると体感した出来事でした。利他学会議のにぎやかな雰囲気も印象的でした。多くの会合は単調で事務的なものが多い中、利他学会議のみなさんは楽しそうで。どうしてこんなにも議論が活発なのかPLAY DESIGN LABのメンバーと不思議がっていたんですよ。

 

I :多くの大学のイベントは退屈ですよね(笑)。私たちの原則は単純で「嫌なことはしない」。代わりにやりたいことはできるようにするのがセンター長である私の仕事です。周りから余計な手が入らないように、ある意味「空中庭園」のような環境にしておく。活発な議論のためには「心から遊べる場所」をつくることが大事なのかもしれません。

 

曖昧なあそびは、明瞭なゲームに侵される


 

T :子どもはあそびの天才ですが、大人になると遊ぶのが下手 になりますよね。

 

I :未来の人類研究センターのホームページは、公園でメンバ ーが遊んでいる映像を流しているのですが、撮影の際に公園に行ってみていかに自分が遊べなくなっているかに気づきました(笑)。砂場に行っても、座ってただ話しちゃうんです。全然手が 動かない。結構ショックでした。これは大人として社会で生きて いるうちに、無意識に「ゲーム」に侵食されていたんだろうなと。 私は明確なルールがある「ゲーム」と目的なく楽しむ「あそび」は 正反対なものだと考えています。利他学会議の時にこんな話が挙がりました。ある年配の方は、 毎朝散歩するときにペットボトルに入れた白湯を飲む習慣があ るそうです。ある日、飲み終わって空になったペットボトルをなん となく投げてみて、毎日やっていたらどんどん楽しくなっちゃって。周りから変な目で見られる気がするから恥ずかしいんですけど、 一方で投げることはだんだん上手になり、空中で3回転させたり、高さを出したりとあそびに発展したそうなんです。 これってルールのないことですよね。軽い気持ちで始めたら、思いがけずのめりこんでしまったという。そういう意味で遊ぶって結構「怪しいこと」なんだと思います。ルールがないところに飛び出して、はたから見ると何をしているかわからないものをこっそりやる。大人として社会性が強くなるにつれ、あそびは生まれにくく なるのかもしれませんが、人に話したりしないだけでみんな色々やっていると思うんです。 むしろ大人の世界で表に出てくるのは「ゲーム」の方です。ゲームをしているうちに健康になるとか、やらなきゃいけないことをゲ ーム化して楽しくする仕掛けもいっぱいあります。全てがゲーム化すると「あそび」の方は追いやられていくというか、プライベートな領域に移るのかなと思います。 けん玉には「ゲーム系」と「あそび系」の二つの流派があることも 話題になりました。「ゲーム系」は技を決めたら得点になるもの で、パフォーマンスに主軸があります。スケートボードやストリート系のあそびも最近どんどんゲーム化していますよね。一方で、そういった流派と一切関係なく「なんじゃそれ」というような新技をひたすら発明し続けるものが「あそび系」です。

 

T:目的や意味がはっきりしているから、我々は「ゲーム系」に 権威を持たせがちですよね。評価とか周りの目を気にした時に あそびがなくなり、知らないうちにあそびが下手になってしまうの かもしれません。

 

I :まさにそうなんです。自分もそうなっていると気づいて愕然としました。

 

迷惑や面倒が、つながりをつれてくる


 

T :伊藤さんはご著書で「ひとりあそび」をたくさん開発されたと 書かれていましたが、具体的にはどのようなあそびをされていたのですか?

 

I :実際には、いたずらに近いあそびをしていました。あそびといたずら、この2つの違いは何なのでしょうね。私はかなり理系チ ックな子どもで、子どもの頃から思いついたらとりあえず実験をしていました。真夏の熱くなった車のボンネットで卵が焼けるかどう か気になって。ある日、知らない人の車に卵を..(. パカリ)。

 

T:やってしまったんですね(笑)。

 

I: 他にも、住宅地の隙間を利用してA地点からB地点への異 なる経路の発明にはまっていました。住宅街の家と家の隙間をくぐり抜けて神社の裏を通ったらコンビニまで行けた、みたいな。 そうした感覚は論文の書き方につながっているかもしれないで すね。道がないところに道を作って「あ、これとこれつながるんだ」って。

 

T:遊具やおもちゃで遊ぶというより、環境全体を使ってあそびを発明していたわけですね。

 

I :そうですね。決められたルールのなかで遊ぶより、あそび方を 発見して遊具化することの方がおもしろいと思っていました。これは遊具をつくる難しさだと思うのですが、デザインした側の指定した通りに遊ぶと「あそび」ではなく「ゲーム」になってしまいますよね。

 

T:そのバランスの取り方は難しいです。我々もいかに遊具の「指示性」を取り除くかという挑戦を、開発のたびにしています。 社内のキーワードは「あそんじゃう02」。「じゃう」がいいよねと。ついつい「あそんじゃう」こと、思いがけず人と「つながっちゃうこと」 に対して何ができるだろうといつも話しています。

 

I :その考えは利他ともつながりがありますね。利他も「はいどうぞ」と一方的に与える人がいたら、支配と受動の関係になってしまって楽しくありません。受け取る側が「主体性」と「偶然性」をもてる余白が必要なんですよね。つい「受け取っちゃう」ような関係。私は最近「もれる」という動詞がおもしろいと思っています。与えるのではなく、たまたまもれでたものを他の人が使う。どこに渡すか宛先を決めない利他です。

 

T:「もれる」っていい言葉ですね。奈良県生駒市にある「まほうのだがしやチロル堂03」の取り組みにも「もれる」にも似た独自の「ルール」と「あそび」の融合を感じます。

 

I: チロル堂は取り組み自体もユニークなのですが、例えばお隣さんの工事の騒音に困っていたときに「あそび」で解決していたのが印象的でした。彼らは工事現場が見える窓に「はたらくおじさんをみよう」という張り紙を貼ったんですね。すると、重機に乗ったおじさんが水族館の中の生き物のように見えてくる。さらにチロル堂の喫茶メニューを工事現場から見えるように貼ったところ、工事のおじさんたちが来てくれて注文してくれるようになったそうです。こんな風に仲良くしていると、小さい子をショベルカーに乗っけてもらえたりして「あそんじゃった」につながった。通常のルールからはみ出すことで、しきたりや他者との境界線が曖昧になるおもしろい例です。そういう力が潜在的にある店だから、ゲームの方には流れないのだと思います。

 

T :いいですね。そういうハードやルールが引き金になって、あそびを誘発できたらいいなと思います。伊藤さんご自身は「他者と溶け合っていくような環境」をつくるときに大切にしていることはありますか?

 

I :迷惑なことを頭ごなしに抑圧しないことが大事だと思っています。「こんなことしたら迷惑なんじゃないか」と思ってやめてしまったら、あそびは生まれない。例えば兵庫県豊岡市が取り組んでいる「コウノトリとの共生活動04」は興味深い事例です。共生といってもコウノトリは野生生物なので当然、人間の思うようには動いてくれません。民家の近くの電柱に巣を作ったり、ビオトープにやってきたり。とにかく迷惑なことばっかりするそうなのです。人間の方は電柱に巣を作られたら電力会社と話さなくてはならない。そうすると意外にもこれまで対話がなかったところに対話が生まれていったんだそうです。こんなにも面倒くさいコウノトリを飼うことが、プラスの効果をもたらすと信じて共生を決意している。市民としてすごい選択です。人間の都合によって仕組みがあったり領域が分けられていたりするだけで、それが全てではないと気づかせてくれました。そういうことがあそびの場でも大事だと思っています。

 

人を縛るルール、人を遊ばせるルール


 

I :「ルール」と「あそび」という、相反する二者の共存が見てみたいですね。例えば「あそびのあるルール」の形はどのようになるのか興味があります。

 

T :ゆるやかなルールですね。ルールがないまっさらな状態だと何も起きないけれど、小さなきっかけを差し出すことで動き出すような仕組み。「する側」と「される側」がはっきりしすぎていることが原因で、多くのルールは過剰になってしまっているように思います。

 

I :これから調べてみたいなと思うのは、神奈川県の真鶴町が1993年に制定した『美の基準05』という街づくりのガイドラインです。バブル時代の日本で地方のリゾート開発が盛んになり、 景観やインフラが破壊されたなかで、地域の人々が抵抗するた めに設定したものだと言われています。真鶴の街で新しい建築を建てる時に従うべきルールが記されているのですが、その文章 がものすごく抽象的で、ポエティックなんです。「舞い降りる屋根」 とか「聖なる所」とか「生きている屋外」とか。今の発想だったら 「道路から何メートルまでに」と厳密に指定するじゃないですか。 あえてそうしていないのだと思うんですよね。抽象的に書いてあ ることでその都度解釈しなければならず、面倒かもしれないけれ ど、逆に言うと解釈の余地があることで多様性が保たれることに もなる。評価基準やレギュレーションは、もっと幅広いスタイルがあって良いと思うんです。そのときルールに「あそび」をどう入れる か、PLAY DESIGN LABさんに教えていただきたいですね。

 

T:ゆるやかな枠組みがあるからこそ、対話が生まれたり新しい 関係に繋がったりするのかもしれません。余白のある言葉だから 色んな人の思考が絡み合い、思いがけないものを生むように。

I :そうですね。あそびが組み込まれたルールで、ひとつの方向 を向いて自走するのはなかなか難しい面もありますが、先ほどのコウノトリの例と同じで、その面倒ささえも抱えてしまうことが対 話や関係を生むために大事なことなのだと思います。

 
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