アートと学びの公共空間をひらく/上野正道さん講演

June 22nd, 2026
上野 正道
上智大学総合人間科学部教育学科 教授
社会のあり方が大きく変わるなかで、あそびや学びの意味も問い直されている。多様な人びとがともに生きる公共空間、生成AI時代の創造性、正解のない問いに向き合う力。これからの教育や空間づくりには、社会全体を見つめ直す視点が求められている。今回は、上智大学・上野正道さんをお招きし、アートと学びがひらく公共空間の可能性についてお話しいただいた。

 


 

変化を遂げるアートと公共空間


上智大学総合人間科学部教育学科の教授として、アートと教育の視点から地域社会や公共空間のあり方を研究している上野さん。本講演では、私たちがよりよく生き、よりよく学ぶことで、よりよい社会や世界を築くために何ができるのかについて考えた。

近年、アートと教育をめぐる公共空間は大きく変容を遂げつつある。その背景には4つの重要な変化がある。

第一に、グローバル化や多文化共生社会の進展である。日本においても、外国にルーツをもつ子どもや、日本国籍をもちながら海外で育った子どもなど、多様な背景をもつ人びとがともに暮らしている。こうしたなかで、多様な人びとが互いに関わり合いながら公共的な場をどのように創り出していくのかが重要な課題となっている。

第二の変化は、生成AIをはじめとする技術革新の進展である。テクノロジーが急速に発展するなかで、人間は何を学び、どのような役割を果たすべきなのかという根源的な問いに直面している。生成AIが平均的な答えを効率よく導き出せる時代だからこそ、人間には既存の枠組みを超えて発想し、新たな可能性を切り開く「あそび心」が求められると、上野さんはいう。

「学問とは“学び、問う”と書くように、問うことを学ぶことであり、問いながら学ぶことであり、また問うこと自体が学びでもある。そして、そのプロセスそのものを楽しめることが大切です。“幸せな社会とは何か”、“よい教育とは何か”といった問いに対する答えは、人によって異なる。しかし、答えは一つでなくても、問いを共有することはできる。これまでの教育や社会では正しい答えを導き出すことが重視されてきたが、技術革新が急速に進むこれからの時代には、容易に答えの出ない問いに向き合い続けること自体に価値があるのではないでしょうか。」(上野さん)

第三に、将来の予測が困難で、不安定かつ不確実なリスク社会の進展である。日本では、試験の際に「分からない問題は飛ばしてよい」と指導されることも多く、その結果、学力調査やテストなどでの記述式問題の無回答率が国際的にみても高い傾向にあるという。しかし、将来の見通しが立ちにくい社会においては、答えをすぐに導き出せない問いや、一見すると意味がないように思われる問いにこそ面白さや価値を見いだすことが重要だ。アートやあそびは、その典型的な例である。何が生まれるか分からない状況そのものに楽しさがあり、そこに人間らしさが表れる。

第四に、持続可能な社会や公正で民主的な社会の実現である。人びとが問いを共有し、拙速に答えを求めない社会の方が、むしろ持続可能性や発展可能性を高めるのではないか。新たな公共空間の創出や地域コミュニティの再生、多様性と包摂の実現、人間の尊厳やウェルビーイングの向上を目指すうえでも、人びとがともに問いを抱え、対話できる場を育んでいくことが求められている。

アートや教育を単に知識伝達やスキル獲得としてだけではなく、人びとが問いを共有し、多様な他者と対話し応答しながら未来の社会を構想していくための公共的な営みとして位置づけ、その可能性について考えていくことが大切である。

 



 

アートを通じて経験し、試行錯誤する重要性

アートと学びを中心とした公共空間づくりに大きなヒントを与えてくれるのが、19世紀後半から20世紀前半に活躍したアメリカのジョン・デューイの教育理論と実践である。一般にアートというと、作品や演奏、舞台などの表現活動がイメージされる。しかし、デューイはアートを単なる作品ではなく、「経験」として捉えた。

こうした考え方を背景に発展したのがワークショップである。ワークショップは、アートを展示・鑑賞するだけでなく、それを通して人びとが学び、対話し、社会のなかで生きることと結びつける経験的な活動である。そこには、アートを美術館や博物館の内部に閉じ込めるのではなく、地域社会や日常生活の場へと開き、人びとの暮らしのなかに位置づけようとする発想がある。

経験は英語で「experience」だが、その語源はラテン語の「experientia」であり、「試行錯誤」や「証拠」を意味する。また、語頭の「ex」には「外へ」という意味が含まれている。つまり経験とは、自分の外の世界へ踏み出し、試行錯誤を重ねることだという。外の世界には不確実さや困難があり、必ずしも成功するとは限らない。しかし、そのような試行錯誤の経験を重ねることによって、人は「experience」から「expert」へと成長し、専門性を獲得していくのである。

さらにデューイは、自身が1896年に創設したシカゴ大学の実験学校において、「occupation(仕事)」と呼ばれるプロジェクト活動を教育の中心に据えた。これは今日のプロジェクト型学習(Project-Based Learning)の原型ともいえるもので、子どもたちの「活動したい」「表現したい」「つくりたい」「何かを成し遂げたい」という要求に応える学びのあり方であった。子どもたちは、自ら問いを立て、あそび、学び、思考し、探究し、表現する。そして、自ら選択し決定する経験を重ねることで、学びを自分自身のものとしていく。そこには、デューイが提唱した「learning by doing(なすことによって学ぶ)」や「learning by making(つくることによって学ぶ)」の教育観を見ることができる。

また、「occupation」の動詞形である「occupy」には、「占める」「没頭する」「没入する」といった意味がある。デューイが目指したのは、子どもたちが活動に主体的にかかわり、その世界に深く没入することで、社会や学びを自分自身のものとして感じられる状態であった。アートやプロジェクト活動は、そのような主体的な経験を生み出す重要な契機となるのである。

 


ジョン・デューイ『学校と社会』に掲載された学校構想図。生活、産業、自然、芸術と結びつきながら、学校を社会へとひらかれた学びの場として構想している。
出典:John Dewey, The School and Society / Public Domain

 

もう一人、アートと公共空間を語るうえで欠かすことのできない人物がいる。それが、アメリカの教育哲学者マキシン・グリーンである。グリーンは、教育を単に正解を導き出す営みではなく、私たちが世界に問いを投げかけ、新たな可能性に目覚めるための公共的な営みとして捉えた。そして、アートがもつ想像力を通して、人びとが問いを共有し、対話を生み出すための「余白」をつくることの重要性を説いた。

「従来の教育は、多くの知識を身につけることを重視し、コップを知識で満たすことを目指してきた。しかし、それでは余白がない。コップがいっぱいになってしまえば、新しいものが入る余地はなくなってしまう。これに対して、いっぱいでないコップには、水もお茶もコーヒーも注ぐことができ、それらを混ぜ合わせることもできる。つまり、『未』であることは欠如ではなく可能性なのである。まだ完成していないからこそ成長の余地があり、新たな発見や創造の楽しさが生まれる。人間は誰しも『未完』の存在であるからこそ、互いに協力し合い、学び合う必要が生まれる。そうした関係性のなかから社会が形成され、新たな技術や文化、そしてアートが創造されていく。アートや教育の公共空間には、人びとがそれぞれの『未』を持ち寄り、問いや対話を通じてともに未来を創り出していく場としての可能性がある。」(上野さん)

 


アート教育の公共政策 <デューイとグリーンのアート論>


 

 

 

アートは人と人をつなぎ、コミュニティを育む

アート教育が公共政策として本格的に取り入れられるきっかけとなったのが、1930年代のアメリカで実施された連邦美術プロジェクトなどの芸術文化政策である。これは、世界恐慌によって多くの失業者が生まれる状況で、美術や音楽、演劇などのアーティストを雇用し、アートを通じた地域づくりを進めた芸術文化事業の公共政策であった。このプロジェクトでは、市民が日常生活のなかでアートに触れられるよう、壁画やポスター、絵画、彫刻などが学校や役所、図書館といった公共施設に設置された。

また、全米各地にコミュニティ・アート・センターが設立され、都市部だけでなく地方や農村地域にもアート教育の機会が広げられた。教育やワークショップ、パブリックアートなどを通じて、私たちの学びや暮らしのなかにアートが根づき、社会への参加や地域との結びつきが育まれていったのである。この歴史的なプロジェクトが示しているのは、アートというものが、美術館や博物館、コンサートホールのなかの作品だけを示すのではなく、ふつうの人びとの生活や経験、地域の創生と深く結びつき、アートと学びを通した公共的な空間を開いたということである。

 

コイトタワーに残るフレスコ壁画《California Life》。公共建築の中にアートをひらいたニューディール期の取り組みを今に伝えている。
Photo: Carol M. Highsmith / Library of Congress, Prints and Photographs Division

 

グローバル化や技術革新が進み、AIやロボットが社会のさまざまな場面で活用される時代においては、基礎的な知識や技能に加え、主体的・協働的に学ぶ力や創造的思考、批判的思考、探究的思考、さらには社会に働きかける実践力が求められるようになる。そのため、問いを立て、あそび、学び、探究し、対話することのできる環境の重要性はこれまで以上に高まっている。デューイのいう「learning by doing」や「learning by making」を実現するためには、家庭や学校だけではない、新たな学びと交流の場が必要になる。そのような自由な試行錯誤や創造を可能にする空間は、家庭でも学校でもない「第三の場所」として位置づけられるかもしれない。そこでは、人びとが立場や世代を超えて出会い、学び合い、対話するなかから公共性が育まれていく。

さらに、アートと学びを公共的な営みとして捉えるためには、アートを個人の能力や才能として理解するだけでは不十分である。むしろアートは、人と人との関係性やコミュニケーションのなかで成立する社会的な実践やコミュニティへの参加として捉えられるべきだという。アートは個人が所有する能力ではなく、人びとを結びつけ、多様な他者との協働や対話を促す関係的な存在なのである。こうした協働的な経験を通して、多様性を尊重し包摂するコミュニティが形成される。そして、一人ひとりがよく学び、よくあそび、よく育ち、よりよく生きることができる社会へとつながっていく。アートと学びは、よりよい地域社会や持続可能な未来を構想するための重要な基盤なのである。

「私たちがよりよく生きるためのアートは、ウェルビーイングや多様性の包摂と深く結びついています。アートを通して対話を続けることは、持続可能な社会や世界のあり方を考えることにもつながります。簡単に答えを求めるのではなく、『未』の状態を受け止めることで、新たな可能性が開かれていくのではないでしょうか。」(上野さん)

 


上智大学総合人間科学部 教授 上野 正道氏。




 

これからの時代に求められる資質を育むために

最後に、アートが教育と社会をつなぐ実践例として3つの事例が紹介された。

一つ目は、3年に一度開催される世界最大級の国際芸術祭である「越後妻有 大地の芸術祭」である。豪雪地帯として知られる越後妻有地域には、自然とともに生きてきた人びとの暮らしや文化が今も息づいている。芸術祭では「人間は自然に内包される」という理念のもと、作品を鑑賞するだけでなく、地域を歩き、他者と出会い、風景や暮らしを体感することそのものが芸術体験となる。芸術祭は、アートを美術館や展示空間の外へと開き、人びとの日常生活へ解放した点に大きな意味がある。

二つ目は、文化芸術の振興による創造性豊かな地域づくりを目指す一般財団法人 地域創造による地域づくりの実践である。子どもたちとアーティストがワークショップを通して交流し、ともに創造活動に取り組む機会を提供している。そこでは正しい描き方や演奏方法を身につけること以上に、対話や試行錯誤のなかで偶然生まれる発想や表現が大切にされている。平均的な答えを効率的に導き出すAIが普及する時代だからこそ、人間ならではの創造性や独自性を育むことが大切にされる。

三つ目は、きのくに子どもの村学園の実践である。同学園では、デューイの「learning by doing」の思想を体現するように、プロジェクト学習や対話を教育の中心に据えている。チャイムやテスト、宿題、通知表に依存するのではなく、子どもたちが実際に家づくりなどのプロジェクトに取り組みながら学ぶ環境が整えられている。自分たちの手で何かをつくろうとしても、必ずしもうまくいくとは限らない。しかし、失敗や試行錯誤の経験こそが学びを深め、人を成長させる契機となる。挑戦を重ねながら粘り強く取り組むことで、経験(experience)はやがて専門性(expertise)へと結びつき、一人ひとりの力となっていく。こうした学びを通して育まれるのは、知識や技能だけではない。自由に考え、自由に表現し、他者と協働する経験を重ねることで、自由な感性や知性、人間関係を築く力が培われる。そして、それこそが予測困難な時代を生きるために求められる資質なのだという。

「アートは単に鑑賞するだけのものではなく、人と人との間に生まれる経験(experience)そのものです。これからの社会の課題を解決したり、変革する力をもつ人間を育てていくためには、アートを通じた交流や対話、実践の場となるラボラトリーやあそび場、居場所をつくっていくことが大切です。」(上野さん)

アートと公共空間、そして教育の歴史と未来を体系的に捉えながら、「あそび」や「学び」の意味を改めて問い直す機会となった。

 

 


越後妻有・十日町エリアに広がる棚田風景。里山の地形と人の営みが重なり合うこの風景は、「大地の芸術祭」の背景にもなっている。

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